【梅林公園1】岐阜市梅林南町

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岐阜梅林公園 Ⅱ


 ◆ 梅林公園の沿革 ◆

梅林公園はもと上加納村の素封家、篠田祐助氏(現在平成薬品経営篠田祐八郎氏の先祖)
が私邸の庭園篠ヶ谷園(さがたにえん)であったものを昭和23年に
土地及び庭園共に岐阜市へ寄贈されました。
これに隣接の南側民地を買収・拡張し公園としたもので歴史は比較的新しいです。
昭和26年からは毎年2~3月にかけて「ぎふ梅祭り」
(現在は3月の第1土、日曜日)が開催されています。
延べ30万人もの人が花見に訪れ、市民に最も親しまれる公園となっています。


 ◆ 篠ヶ谷園の沿革 ◆

昔は地名を「たたら谷」とか「たらら谷」と呼ばれていました。
「奇岩の露出した所」「足で踏んで空気を送る大きなふいご→製錬所」
「だらだらした丘」などという意味があります。
このあたり一帯は湿地帯が近く山麓には雑木や雑草が繁茂していたため、
狐や狸等の野獣や蝮や百足等も沢山生息していました。
このため農夫や木こりでさえ寄りつくことが出来ませんでした。
また、秋・冬にもなると山奥からシカやイノシシ等が食餌を求めて出没し、
現在の芝生広場一帯の農作物を荒らし大きな被害を与えていました。
そこで、この防止策として明治維新前、この地を治める加納藩では「竹税」を賦課し、
この竹を使って竹矢来(しし垣)を築き鉄砲番を常住させていました。
野獣が襲来すると空砲を放ち威嚇したと言われています。
この制度は明治初年まで実施されていました。
竹矢来(しし垣):瑞龍寺の東端から東へ山麓沿いに湾曲して二軒屋(現在の片岡フォトの東)まで
   約1㎞にわたって築かれた。当時、しし垣の外に掘られた濠が今も園内の池として残っています。
しかし、藩や地元村では年々「竹税」が負担となり苦慮していました。
そこで創園者篠田祐助氏はこの地の開発計画をたて、明治初年以来造成に着手。
当時この計画には瑞龍寺の高僧綾州和尚の協力があったと言われます。
明治12年伊勢国儒者山田松斎により「篠ヶ渓園」と命名され明治14年に開園式が行われました。
以来、毎年補植を行いながら整備し今の梅林公園の前身となりました。
ところが、第二次世界大戦によりその管理や運営が満足に出来なくなって きたこと等から、
昭和23年4月に岐阜市に寄贈され以後、正式に「梅林公園」 となり現在に至っています。