【南部観光6】糸満市





平和祈念資料館は、「第二次世界大戦で貴い命を失ったすべての人々に哀悼の意を表すとともに、悲惨な戦争の教訓を後世に伝え、世界の恒久平和の実現に寄与するため」に平和祈念公園内に設置された資料館である(沖縄県平和祈念資料館及び平和の礎の設置及び管理に関する条例1条)。
1975年(昭和50年)に開館した。沖縄戦に関連する軍関係文書や個人所蔵の文書、ひめゆり学徒の手記などが収蔵・展示されている。
館内の展示は「沖縄戦への道」・「鉄の暴風」・「地獄の戦場」・「証言の場」・「太平洋の要石」の5部で構成されている。


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正面入口


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沖縄県が74億円を投じ 平成12年3月に開館した。

当初の計画では「沖縄戦の実相」のコーナーには実物大のガマをつくり銃を構えた軍人が母親に子供の口封じを命じ、他の場面では衛生兵が青酸カリの入ったミルクを負傷兵に与えるところを人形を使って展示しようという日本軍敵視の一方的なものだった。
平成10年県知事が大田氏から稲嶺氏に代わったのを機に展示の見直し案が出された。
銃と衛生兵はなくし説明では「ガマでの惨劇」を「沖縄戦とガマ」に、「本土決戦準備のための捨て石作戦」を「 本土決戦準備のための持久作戦」に変更し偏向史観を是正しようとした。
ところが前知事時代に任命された監修委員会や革新系団体が猛反発し結局展示の内容は押し切られてしまった。
沖縄戦をどう後世に伝えるかというよりも知事選の遺恨が先行したようだ。


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沖縄防衛のため三十二軍には六十二師団、二十四師団、海軍沖縄方面根拠地隊など約94,400人が配備された。
兵力補充のため沖縄県の17才から45才の男子25,000人が動員され生徒による「鉄血勤皇隊」や女生徒による「ひめゆり部隊」なども編成された。



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本土からは義烈空挺隊の挺身攻撃や戦艦「大和」以下の連合艦隊の突入をはじめ沖縄戦に向けて出撃した陸海軍の特攻機は2,571機にものぼる。
沖縄戦では沖縄も日本本土も軍人も民間人も総力をあげて米軍と対峙したのである。



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沖縄戦は軍民一致で行われた。県民の耕作地や住んでいる所が戦場になった。
生活の場に米軍が現れたのだから多くの住民が戦闘にまきこまれた。
当時の沖縄県の人口は約45万、沖縄出身の戦没者は12万人にも達した。