【志賀公園】 名古屋市北区

志賀公園



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平手正秀はずっと信長の改心を願っていたのですが、それは父・信秀が亡くなっても、葬式には遅れてくるわ、焼香で抹香を位牌に投げつけるわと手に負えず、その後も改めようとしませんでした。
そして尾張国内では次第に不穏な動きが覆われ始めたため、結局1553(天文22)年、正秀は諌言を残しここにあった自宅で自殺したのでした。正秀は62歳でした。
そして信長は改心し天下統一に向け一歩を踏み出したと言われています。
正秀が亡くなった時、信長は馬を飛ばしてここに駆けつけ枕元で泣いたと言われています。
この姿を見ても、信長は父親よりも正秀にどれだけ思い入れがあったかが想像できます。
この由緒ある地を永く保存する目的でこの志賀公園は1930(S5)年に土地区画整理組合によって造成され、1934(S9)年に名古屋市へと寄贈されています。

志賀公園は平手家があった戦国時代よりずっと昔に、人名と思われる文字が墨で書かれた「習書木簡」や、さらに時代を遡った前方後円墳や土器、石器も出土しており、とても歴史と関わりの深い公園です。そんな歴史の息吹を感じつつ、落ち着いた日本庭園を見ながら休憩も可能です。
2000年前九州から志賀にやってきた弥生人。
名古屋っ子の原点はここにあるのかも知れません。




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