【初詣09-5】 名古屋市中区Ⅱ
先の妙善寺から向きを東に変えて進みます。
先に見えるのが「栄園寺」です。
先に見えるのが「栄園寺」です。
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このあたりは千本松原という刑場で、寛文4年(1664)には、200余人の切支丹(キリシタン)を処刑した。 この寺は、寛文5年(1665)2代藩主・光友によってそれらの菩提を弔うために創建された。 境内には千人塚の碑石や、切支丹関係の遺品なども蒐集(しゅうしゅう)してある。 所在地:中区橘一丁目21-38
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そのむかえは東本願寺の境内になります。
<東別院> 世に言うところの「お東さん」の別院である。名古屋地方はお東さんの大地盤。 この別院も全国有数の大別院の偉容を誇る。 元禄3年(1690)、2代藩主・友光から古渡城跡を与えられ堂宇を建てたのが始まりで、文政5年(1822)再建した本堂は36メートルの高さでそびえ立っていたが昭和20年戦災で焼失した。 現在の堂宇は昭和43年に再建したもの。 <古渡城跡> 天文3年(1534)、織田信長の父・信秀が構築したのが古渡城である。 信秀は今川氏から奪った那古野城にいたのだが那古野城は信長に任せこの城に入った。 しかし信秀はさらに末森城を築いて入り信長も清須城に入ったため廃城となった。 東別院などがある一帯が古渡城跡で、東北隅のあたりは城跡の面影をとどめている。 所在地:中区橘二丁目8-55
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更に東に向うと右手に名古屋TV(放送局)があります。
その北隣に「下茶屋公園」があります。
その北隣に「下茶屋公園」があります。
<下茶屋公園> 東本願寺名古屋別院の境内・東北隅のあたりは天保年間に増築された別院新御殿の北庭だった。 池あり、築山ありの起伏に富んだ回遊式の名園として知られていた。 しかし、第二次世界大戦の戦火をうけて荒廃した。 その後、ようやく往時の面影をしのべるまでに修復し、公園として公開された。 所在地:中区橘二丁目9
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メ~テレ正面