急行「飯田線秘境駅号」って何

 
秘境駅」はとても日本的

 人里から離れ、駅に至る大きな道もなく、鉄道以外での到達が困難な「秘境駅」。そんな駅を訪れ、非日常感を味わう「秘境駅ブーム」がいまも続いています。2000年代後半から始まった動きですが、人気を受け、JR東海飯田線豊橋駅(愛知県豊橋市)と飯田駅(長野県飯田市)のあいだを結ぶ秘境駅観光列車、急行「飯田線秘境駅号」の運行を2010(平成22)年春に開始。以降、毎年春と秋を中心に不定期で運行しています。

【地図】急行「飯田線秘境駅号」の走行ルート

 飯田線に複数ある秘境駅を、本数が多くはない普通列車で1日に回るのは困難ですが、秘境駅をたどる「秘境駅号」ならそれが可能。10年目を迎えたいまもなお人気は衰えず、2019年5月には、世界が共感する“クールジャパン”を発掘・認定する「クールジャパンアワード2019」でも表彰されました。

 選考理由についてある外国人審査員は「誰も降りないひなびた秘境の無人駅に静かに止まる列車は映画の世界のよう。深い山の中、あたり一帯に囲まれ、蝉の鳴き声だけが聞こえるような情景はとても日本的」としています。

秘境駅って何がおもしろいんだろうと、懐疑的でした」

 秘境駅の魅力とは何なのか、「秘境駅号」の企画を担当するJR東海 運輸営業部の大谷直也さんはこう分析します。

「正直に申し上げますと、私もこの観光列車を担当するまで、秘境駅って何がおもしろいんだろうと、懐疑的なところがありました。そこで実際に『秘境駅号』に乗って、いざ小和田駅田本駅などに降り立ってみると、これまでにない興奮を覚えたんですよ」(JR東海 大谷さん)

古い木造駅舎、打ち捨てられたミゼット…秘境駅のロマン

 例えば小和田駅静岡県浜松市)では、クルマが入って来られる道が駅につながっていないにもかかわらず、立派な古い木造の駅舎があるのですが、付近には製茶工場の廃屋があり、「ミゼット(かつての三輪自動車)」や「カブ(オートバイ)」も廃車となって横たわっています。

 田本駅(長野県泰阜村)は、幅およそ2mしかないホームの前にダムのような巨大なコンクリートの壁がそびえ立っていて、駅の端に登山道のような細い道が接続しているだけであるため、一見すると出入口がないような錯覚に陥ります。

田本駅は、なんでこんなところにコンクリートの壁があるんだろうと、駅に降りてまず思いましたね。そこに人工物の美しさや、昔は人の営みがあったんだろうな、というような、ストーリーやロマンを感じました。なるほど、こういう価値があるんだな、という発見がありましたね」(JR東海 大谷さん)

秘境駅号」10年続く理由

 急行「飯田線秘境駅号」が10年続いている要因に、大谷さんはリピーターの多さを挙げます。

「鉄道愛好家の方をはじめ、リピーターの方がすごく多いですね。ただ、近年は家族連れの方や、若い女性グループ、外国人の方もちらほらといらしており、『秘境駅号』そのものが浸透してきているのかなという手応えもあります。車内での施策としては、車掌による観光スポットの解説もご好評をいただいております」(JR東海 大谷さん)

駅での特産品販売、完売になるほどの人気

 急行「飯田線秘境駅号」はこの2019年秋、11月16日(土)と17日(日)、23日(土・祝)、24日(日)の4日間に1往復ずつが設定され、下りは豊橋駅を9時50分に出発。途中、秘境駅の小和田(こわだ)、中井侍(なかいさむらい)、伊那小沢(いなこざわ)、為栗(してぐり)、田本(たもと)、金野(きんの)、千代(ちよ)などに停車しながら、15時30分に飯田駅へ到着します。

 上りは、飯田駅を13時03分に発車し、同様に6つの秘境駅に立ち寄りながら、豊橋駅へ17時54分に到着。上下ともに、秘境駅に挟まれた途中の平岡駅(長野県天龍村)ではしばらくのあいだ停車し、お茶やゆずを使った加工品など地元の特産品の販売も行われます。

平岡駅での特産品の販売は、いつも完売になるほどの人気です。地元の方々によるお見送りもあります。なるべく地元の方々のご協力を得るような形でやらせていただいており、弊社だけでなく、地元の方々と双方の利益になるようにと考えています」(JR東海 大谷さん)

 観光列車として10年続けていくうえで、顧客サービスの維持向上だけでなく、沿線自治体の住民の力を借りられたのも大きかったと、大谷さんは言います。

「お客さまにとっても、そうしたものがあるから行ってみようという気持ちが生まれると思うので、地域への密着はとても大事にしています」(JR東海 大谷さん)

秘境駅」海外の鉄道好きも注目?

 急行「飯田線秘境駅号」は駅の窓口などで乗車券と急行券、指定席券を手配することで乗れるほか、JR東海ツアーズやクラブツーリズムといった旅行代理店を通じたツアーでも乗車が可能です。

 ツアーの場合、終点の飯田駅から日本屈指の星空が見られるという阿智村(長野県)の昼神温泉を巡る旅行商品も用意されており、翌日には大鹿村(長野県)のしし鍋や松川町(長野県)のフルーツ狩りが楽しめます。このほかにも各種旅行商品がありますが、個人で「秘境駅号」を手配した場合、値段は豊橋~飯田間で乗車券2590円、急行券980円、指定席券520円で計4090円です(消費税改定前)。

 前回、2019年4月の運行について、大谷さんはこう振り返ります。

「一緒に乗らせていただきましたが、桜の開花の時期と重なったこともあり、花見も楽しめました。外国人の方が10人前後いらっしゃったのも印象的でした。欧米系のひとり旅の方々が中心で、他の観光地のインバウンド旅行者の方とは毛色が違うように感じます。もしかすると、海外の鉄道好きの方だったのかもしれません」(JR東海 大谷さん)

 この1か月後に「秘境駅号」は、「クールジャパンアワード2019」を受賞。国内だけでなく、海外にも「秘境駅ブーム」が飛び火する予感がうかがえます。JR東海はこの受賞を受け、2019年秋の運行から、新たに制作したという英語版「秘境10駅みどころMAP」の配布、スタッフへの携帯通訳機配備といった施策を開始するそうです。

秘境駅号」に乗っていたら駅長になれる? 乗客へプレゼントも

 JR東海によると、急行「飯田線秘境駅号」2019年秋の運行では、乗車記念として「飛び出す乗車証明書」と「原寸大ヘッドマークシール」をプレゼントすることにしたとのこと(下り列車は東栄~大嵐間、上り列車は小和田~浦川間で配布)。

秘境駅「小和田」での特別体験

 また、この2019年秋からは、「秘境駅」のひとつである柿平駅(愛知県新城市)へ新たに停車するほか(下り列車のみ)、乗客(子ども)から抽選で1名を選び「小和田駅一日駅長」に任命する企画も実施。一日駅長に任命されると、普段は閉鎖されている小和田駅の駅事務室に入って、「秘境駅号」乗客へ当日限定の「小和田駅記念入場証」を渡すという特別な体験ができます。

 今年で10年目を迎えた「秘境駅号」、今後もますます利用者の拡大が見込まれそうです。

【鶴舞公園104】

薔薇園Ⅰ

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薔薇園➀

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薔薇園➁

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薔薇園③

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薔薇園④

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薔薇園⑤

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薔薇園⑥

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薔薇園⑦

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薔薇園⑧

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薔薇園⑨

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薔薇園⑩(ブル-ム-ン)

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薔薇園⑪(マルコポ-ロ)

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薔薇園⑫

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薔薇園⑬

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薔薇園⑭

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薔薇園⑮(つる薔薇)






◆薔薇

バラ薔薇)は、バラ科バラ属の総称である。あるいは、そのうち特に園芸種(園芸バラ・栽培バラ)を総称する。ここでは、後者の園芸バラ・栽培バラを扱うこととする。
バラ属の成形は、灌木、低木、または木本性のつる植物で、や茎にを持つものが多い。葉は1回奇数羽状複葉。花は5枚の花びらと多数の雄蘂を持つ(ただし、園芸種では大部分が八重咲きである)。北半球温帯域に広く自生しているが、チベット周辺、中国雲南省からミャンマーにかけてが主産地でここから中近東ヨーロッパへ、また極東から北アメリカへと伝播した。南半球にはバラは自生しない。
 

 

ハウステンボス長崎県

ハウステンボスは、オランダの街を再現した、長崎県佐世保市のテーマパーク。そのため、花といえばチューリップというイメージですが、全国トップクラスの規模を誇るバラの名所でもあります。日本一広いテーマパークの各所に、約2000種120万本のバラが咲き誇ります。クルーザーに乗船して見学できる「バラの運河」、2000品種のほとんどが集まる「グランドローズガーデン」など、多彩なバラスポットが点在します。5月13日から6月5日までバラ祭を開催しています。
たーずりさんの投稿写真
potetiさんの投稿写真
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バラは満開で、遠くから見たりナイトローズのライトアップを滝のイルミネーションをバックに見るのはとても素敵。二晩続けてみてしまいました。猫の名前はクロさんの口コミ
朝早くのほうが花もシャキッとしていてよい香りがしました。オランダの街並みにありとあらゆる薔薇が見事に咲いていて本当にきれいです。猫の名前はクロさんの口コミ

京成バラ園(千葉県)

千葉県八千代市京成バラ園は、ローズガーデンを中心にローズショップやガーデンセンターなどが集まる複合施設です。3万㎡の園内に、オールドローズから最新品種まで1600種1万株を超えるバラを中心に、さまざまな草花が植栽されています。5月6日から6月12日まではローズフェスティバルが開催され、著名なバラ愛好家と共に園内をめぐるガイドツアーなど、さまざまなイベントが行われます。
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バラに関するすべてがあります。見事なバラを咲かせたローズガーデンが有名ですが、園芸店でもありますので、バラの販売はもとより、バラの肥料や土なども豊富にそろってます。ゆーざ1234さんの口コミ
数多くの薔薇が栽培されており、様々な色や形に驚きます。 中に食堂は有りませんが、チケットで再入場が出来ますので、近場の飲食店、コンビニに行けます。 yuzu nさんの口コミ

花フェスタ記念公園(岐阜県

1995年に岐阜県可児市で開催された花の博覧会「花フェスタ’95ぎふ」の会場を再整備した公園です。広さは約80万㎡あり、約7000種3万株のバラが「世界のバラ園」と「バラのテーマガーデン」を中心に植栽されています。5月13日から6月8日まで開催される春のバラまつりでは、土曜限定のナイトローズガーデンなどの多彩なイベントが開催されます。
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バラの種類の多さにはとても驚かされました。とても広い庭園もあり、ゆっくり見ながら散策しとてもくつろげれました。segu2315さんの口コミ
テーマ別に区切られた庭園や温室、展望台がドーム球場13個分の広大な敷地に配置されており、しっかり見ようと思ったら1日では足りないと思います。7千種3万株の薔薇は伊達ではなく、薔薇好きな人には天国みたいな所でしょう。segu2315さんの口コミ

いわみざわ公園(北海道)

いわみざわ公園は、北海道岩見沢市の丘陵地帯に位置する、約183万㎡の広大な都市公園です。その一角にある約4万㎡のバラ園には、寒冷地に適した品種を中心に約630種8800株のバラとハマナスが植えられています。園内の見どころは、ハイブリッドティー・ローズやグランディフローラ・ローズなど、大輪の品種が咲き乱れるローズガーデン。開花時期はやや遅く、6月24日から7月9日にローズフェスタが開催されます。
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バラは匂いのない品種が多いけれど ココには匂いの強いオールドローズが沢山あります。 この匂いをかぎに行くだけでも価値あります。nagareboshiwaraimesiさんの口コミ
五月初旬と中旬の二回に温室内のバラ開花を見に訪れたい。 バラの香りが充満し、一面バラの光景は圧巻。 nagareboshiwaraimesiさんの口コミ

東沢バラ公園(山形県

2002年にオープンしたバラ園と3つの湖を中心にした、山形県村山市の東沢バラ公園。約750種2万株のバラが植栽されていて、公園の入口をくぐるとバラの甘い香りが漂います。この公園は、全国のバラ園で唯一、環境省の「かおり風景100選」に選ばれています。見頃は6月上旬から9月下旬で、最盛期の6月上旬から7月上旬にかけてバラまつりが開催されます。
YuIshiさんの投稿写真
YuIshiさんの投稿写真
YuIshiさんの投稿写真
香りの風景百選に選ばれているだけのことはあり、園内のばらの香りにうっとり。バラ好きにはたまらない場所だと思います。広すぎず、狭すぎず、ちょうどよい広さ。ゆーざ1234さんの口コミ
整備された歩道なので車椅子の方や、ベビーカーのお子様連れも多く、また園内いたるところにベンチや休憩スペースがあり、のんびり休みながらバラを楽しむ事ができます。ゆーざ1234さんの口コミ

茨城県フラワーパーク(茨城県

茨城県石岡市のテーマパークでは、5月15日から6月25日までバラまつりが行われます。30万㎡の広大な園内に、ボタンやアジサイ、ダリアなどの花園が点在しますが、メインは約800種3万株が植えられているバラテラスとバラ品種園です。筑波山をバックに咲き誇るバラは、色系統ごとに分類して植えられているのが特徴。バラまつりの期間中、バラの人気コンテストや、園芸教室などのイベントが開催されます。
seabeach08さんの投稿写真
samurai757575さんの投稿写真
seabeach08さんの投稿写真
ゲートを入るとほんわり風にのってバラの香りがしてきて、見渡す限りバラの花園に驚きます。園内をまわるバスもありました。庭園のバラの花のほかに温室の中のダリアやベコニアもきれいでした。近場でまったり派さんの口コミ
茨城県県花が「バラ」であることから最も力の入った企画となっている。広大な園内には約800品種約3万株のバラが栽培されており、圧倒的な迫力で存分に楽しませてくれる。近場でまったり派さんの口コミ

中之島公園大阪府

大阪府大阪市のオフィス街にある中之島公園は、都心にありながら、大阪でも有数のバラの名所です。5月中旬から下旬にかけて、バラ園や散歩道「バラの小径」などで約310種3700株のバラが咲きます。1800年代から2000年代まで10年ごとに区切られた「パッチワーク花壇」では、バラが誕生した年代別に植えられているので、品種改良の歴史を知ることができます。
Rubpyさんの投稿写真
Eagle_Cさんの投稿写真
大阪のオバチャンさんの投稿写真
バラの季節のバラ園はフォトジェニック。写真を撮るのに最適です。芝生広場ものんびりピクニックができるので、暖かい時期はレジャーシートでも持ってお散歩に。okohsさんの口コミ
珍しい品種が、多くあり、写真を撮るスポットが多くあります。バラを鑑賞するには、開放感のある場所なので、散歩によいです。交通の便もよく、食事をする場所も近くに多くあります。こんすけ71さんの口コミ

荒牧バラ公園(兵庫県

兵庫県伊丹市の北部にある、1.7万㎡の荒牧バラ園。5月中旬から6月中旬にかけて、伊丹市で作られた「天津乙女」や「マダム・ヴィオレ」などをはじめとした、約250種1万本のバラが咲き香ります。公園はアンティークな南欧風な作りで、バラの開花時期は、日本とは思えない光景が広がります。まずはバラ園全体を見渡せるエントランス付近で美しい景色を楽しんで。
TadahikoNagataさんの投稿写真
EvgeniyaNavさんの投稿写真
hiro1960さんの投稿写真
世界のバラ約250種1万本が広さ1.7ヘクタールの南欧風のおしゃれな園内一帯に咲きます。 入場無料なのでとても良いですね。唯人 横さんの口コミ
適度な広さに1万本のバラが咲き誇り甘い匂いに満ちていました。 入場無料の公園でこれほど癒されるとは思いませんでした。 こんな施設のある市民は幸せだなと感じました。唯人 横さんの口コミ

かのやばら園(鹿児島県)

鹿児島県鹿屋市にある霧島ヶ丘公園の東側丘陵地に2006年にオープンしたバラ園で、約1500種3万5000株が植えられています。8万㎡の園内は、区画ごとに色の異なるバラを植えた「カラーガーデン」や、童話や物語にちなんだ名前のバラを集めた「フェアリーガーデン」などに分かれていて、所要約2時間の散策路が整備されています。4月29日から6月4日まで、かのやばら祭りを開催します。
ブルービリーブさんの投稿写真
harumisangdongさんの投稿写真
ブルービリーブさんの投稿写真
バラの季節には 販売もあり ゴーカートや 遊具もあるので 幼児からシニアまで楽しめます 海も見える綺麗な空気の澄んだ場所ですsunukaさんの口コミ
全国的にも珍しいほどのバラがたくさん育っています。温室でのバラもあり、剪定して持って帰ることも出来ます。sunukaさんの口コミ
 

【半田市22】

名鉄半田口駅

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半田口駅上りPH


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半田口駅(下り)ホ-ム壁画


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狐が忍んでいます


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改札口上


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年中このまま


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南吉生家の内部❶(下駄屋)


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南吉生家の内部❷


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南吉生家の内部❸(畳屋)


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南吉生家の内部❹階下(台所・風呂場)


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南吉生家の内部➎(1F)小間


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南吉生家の内部➏(台所・井戸)


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南吉生家の内部❼台所(オクド)


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南吉生家の内部❽(浴室)


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     南吉生家の内部❾階段上には勝手場表示


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南吉生家の内部❿風呂桶


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観光案内パンフレット類


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南吉生家の内部⓫写真や説明板(管理人不在の事が多い)




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南吉生家の内部⓬実家に隣接して畳屋


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生家向へに常夜灯


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南吉の生家と記念碑





新美南吉

新美南吉(にいみ なんきち、1913年7月30日 - 1943年3月22日)は、日本児童文学作家。本名は新美正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡短歌俳句戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
半田市名誉市民。出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。半田市は生誕100周年にあたる2013年に新美南吉生誕100年記念事業を各種行った。

生涯

生い立ち

1913年7月30日、畳屋を営む父・渡邊多蔵、母・りゑ(旧姓・新美)の次男として生まれる。戸籍上の出生地は多蔵の実家の半田町字西折戸61番地の3(現在の半田市新生町1丁目99番地)となっているが、実際は畳屋を営む半田町字東山86番地(現在の半田市岩滑中町〈やなべなかまち〉1丁目83番地)と推定されている。前年に生まれ18日後に死亡した兄「正八」の名をそのままつけられた。多蔵は講談好きで講談の本も良く読んでおり、講談に出てくる英雄「梁川庄八」をもじってつけた。また死んだ兄の分とあわせて二人分の知恵と身体を持つようにとの願いもこめられている。りゑは出産後から病気がちになり、1917年11月4日午前1時、29歳で死去する。多蔵は南吉を実家に預け、再婚相手を探した。1919年2月12日、多蔵は酒井志んと再婚。同月15日に異母弟・益吉が生まれている。 1920年4月1日、半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)に入学。おとなしく体は少し弱かったが成績優秀だった。あだ名は「正八」をもじった「ショッパ」。
南吉の実母・りゑの実家の新美家ではりゑの弟・鎌次郎がなくなり、跡継ぎがなくなってしまった。そこで南吉が養子に出されることになったが、当時の法律では跡取りの長男を養子に出すことを禁じていた。多蔵は、1921年7月19日志んと離婚。多蔵と南吉は祖父の六三郎の籍に入る。同月28日、8歳の南吉は祖父の孫として新美家と養子縁組させられた。南吉は養母・新美志もと二人暮らしをはじめるが、寂しさに耐えられず、5か月足らずで渡邊家に戻る。12月3日多蔵と志んは復縁したが、南吉の籍は新美家のままだった。この出来事は幼い南吉にとって大きな衝撃であった。ただし、家族仲は良く、志んは南吉を実子と同じように扱い、南吉は異母弟の益吉を良くかわいがっていた。

中学時代、創作

1926年3月20日、小学校卒業。成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与される。卒業式では卒業生代表として答辞を呼んだが、この答辞は教師の手を入れず、南吉一人で書き上げたものだった。畳屋の多蔵は息子を進学させるつもりはなかったが、担任の伊藤仲治が渡邊家に通って説得する。学校の先生になれると聞いた多蔵は進学を許可。4月5日、南吉は旧制愛知県立半田中学校(現・半田高校)に入学する。南吉は多蔵に進学を反対されたことを終生忘れず、のちに巽聖歌に「家は貧乏、父親は吝嗇、継母は自分をいじめる」と生い立ちを語っている。中学で南吉は児童文学に向かうようになり、1928年2月、校友会誌『柊陵』第九号に『椋の實の思出』童謡『喧嘩に負けて』が掲載される[11]。その後様々な雑誌に作品を投稿する。1929年5月『張紅倫』、6月に『巨男の話』を脱稿、弟の益吉に朗読している。友人たちとも自作を持ち寄る朗読会をはじめたが2回で終了し、9月1日、同人誌『オリオン』を発行。10月、『愛誦』に掲載された童謡『空家』から「南吉」のペンネームを使いはじめた。『オリオン』は翌年1月1日の新年号(5号)で終刊。その後は日記帳に作品を書き始める。 半田中学校卒業直前、『赤い鳥童謡集(北原白秋編)』を読んで感銘を受ける。裏表紙に「一九三一・三・四 中学卒業式の前の日、現在地球上にこれよりすぐれた童謡集はないと思ふ。新美正八」と書き入れ、以後白秋に心酔した。南吉の実家は、多蔵が畳屋、志んが下駄屋を営んでおり、南吉には離れの家が与えられていたが、2月10日、離れが火事で全焼する。当初、南吉の火の不始末を疑われ、結局原因はわからず仕舞いとなったが、南吉は大きな衝撃を受けた。

代用教員、北原白秋との出会い

1931年3月4日、半田中学校を卒業。南吉の希望は児童文学者の大西巨口菊池寛のように大学に行って、卒業後は新聞記者で生計を立てながら作品を書き、いずれは記者を辞めて文筆業だけで食べていくことで、早稲田大学に進学を考えていた。しかし多蔵が許すはずもなく、結局岡崎師範学校を受験する。結果は不合格。体格検査で基準に達していなかったためといわれる。南吉は小学校時代の恩師の伊藤仲治をたずね、母校の半田第二尋常小学校を紹介され、代用教員として採用される。『赤い鳥』5月号に南吉の童謡『窓』が掲載される。主催者の北原白秋を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続ける。8月号には童話『正坊とクロ』が掲載された。8月31日、代用教員を退職。南吉は東京高等師範学校の受験を考えていた。9月、童謡同人誌『チチノキ』に入会。白秋の愛弟子の巽聖歌与田準一と知り合う。またこの頃から木本咸子との交際が始まり、7月に初めてデートをしている。 12月、上京して東京師範学校を受験するが不合格。しかし巽や与田と会い、同じ下宿「ミハラシ館」で寝泊まりしたこと、巽の紹介で北原白秋の家を訪ね、白秋との対面を果たし感激するなど充実した日々だった。また巽から卒業生の半数が教職に就いているという東京外国語学校の受験を勧められる。翌年1月2日帰郷。

ごん狐、外語学校

1932年、『赤い鳥』1月号に『ごん狐』が掲載される。帰郷した南吉は両親に外語学校受験を願い出て許可される。 3月、東京外国語学校英語部文科受験。志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐり、見事合格。4月入学、上京。当初、結婚した巽聖歌の家に下宿し、2学期に学校寮に入った。寮のある上高田には巽の他、与田準一、藪田義雄も転居し、南吉は充実した学生生活を送った。また白秋指導のもと童謡を創作、『赤い鳥』に掲載された。しかし、1933年4月、白秋が鈴木三重吉と大喧嘩の末『赤い鳥』と絶縁。南吉もこれに従い『赤い鳥』への投稿をやめる。さらに『チチノキ』が経済的理由のため休刊。南吉は新しい童謡同人誌発行を計画するが、門下の分裂を恐れる白秋が反対したため断念。作品発表の場を失ってしまう。 7月、与田準一の紹介で長編童話『大岡越前守』執筆するが、出版社から史実と違うという理由で拒否される。この原稿が日の目を見たのは南吉死後のことである。 1934年、2月16日、第一回宮沢賢治友の会出席。 2月25日、結核のため喀血する。南吉は実家に帰り1か月あまり療養したのち、4月に学校に戻る。 1935年、2月11日、チチノキが1年半ぶりに発行され、童謡や翻訳を発表するが、5月廃刊となる。フランス語科の河合弘に自分から声をかけ、友人になる。5月、巽が精文館から幼年童話の依頼を回してくる。南吉は「デンデンムシノカナシミ」など50篇ものカタカナ童話を量産するが、無名の新人という理由で出版不可となる。しかし、作品を書いた経験が南吉にとって大きな自信になっ。 8月、木本と別れる。病弱な南吉が結婚に躊躇したのが原因だった。

病気、転職

1936年、3月16日、東京外国語学校を卒業する。教員免許を取らなかった南吉は東京で就職活動するが、この年は不景気だったこともあり、文系学生の就職は困難だった。4月、東京土産品協会という会社に就職する。南吉は英文カタログを作成する仕事をするが、激務の上月給は40円と安いものだった。10月9日、二度目の喀血で倒れ1か月寝たきりの生活になる。近所に住んでいた巽夫妻の献身的な看病で、小康状態となった南吉は、11月16日、帰郷し療養生活を送る。
1937年、教員の仕事を探し、4月、河和第一尋常高等小学校の代用教員を7月末まで務める。同じ学校で代用教員の山田梅子との交際が始まる。9月1日、杉治商会鴉根山畜禽研究所に就職。寄宿舎に住み込み、鶏の雛を世話をする仕事で、20円の薄給、休みは月2回という激務で、翌年1938年1月退職する。 その後、半田中の恩師で安城高等女学校の校長になっていた佐治克己の働きかけで女学校教員採用が決まり、3月17日中等教員免状を取得する。3月31日安城高等女学校教諭心得の辞令が出る。中山ちゑとの交際がはじまり、4月1日、杉治商会時代から疎遠になっていた山田梅子に別れの手紙を書く。

女学校教員時代

4月4日の入学式から教員生活がスタート。1年生の学級担任となり、1年生から4年生の英語、1年2年生の国語と農業を担当する。図書係や農芸・園芸部長も務めた。給料は70円。通勤に1時間半もかかるため、翌年の1939年、安城町新田の大見坂四郎家に下宿する。 4月23日、外語学校時代に知り合った江口榛一が哈爾濱日日新聞の文芸部に入り、南吉に原稿を依頼する手紙が来る。『最後の胡弓弾き』『久助君の話』や詩が翌年まで掲載される。体調もよく、3年生の関西旅行引率や富士登山、同僚と熱海や大島へ視察するなど充実した年であった。 1940年、6月9日、中山ちゑが青森県の知人宅で体調を崩し、急死。南吉は葬儀で男泣きに泣き、その後1か月は腑抜けのような状態だった。
一方この年は作品が次々雑誌に載る。 年末、学習社という出版社から伝記物の依頼を受ける。学習社の編集者が豊島与志雄宅を訪れて新人作家の紹介を依頼した際、その場に居合わせた南吉の友人で河出書房に勤務していた澄川稔が南吉を推薦。豊島も『赤い鳥』投稿の南吉の作品を知っていたため同調。南吉に原稿依頼となった。1941年1月4日から良寛の伝記を書き始め、3月9日脱稿。10月1日『良寛物語 手毬と鉢の子』が出版される。2万部出版され1300円の印税を受け取る。多蔵は「正八はえらいもんになりやがった、年に千三百円ももうけやがった。」としみじみ言ったという。11月28日、女学校の生徒の兄で早稲田大学の佐薙知の依頼で早稲田大学新聞に『童話に於ける物語性の喪失』を寄稿する。しかし伝記執筆後から体調が悪化。4月は腎臓病で10日あまりも学校を欠勤。その後も体調不良が続き、11月中旬には岩滑の実家に戻っていたが、12月血尿が出る。南吉は死を覚悟した。
1942年、1月、病院で診察を受け腎臓炎と診断されるが、日記に死を覚悟した苦悩をつづる。巽から童話集出版の話が舞い込み、外語時代に書いた童話13篇を浄書して送るが巽は幼年童話を望んでいなかったため採用されなかった。3月末から5月末までの2か月の間に『ごんごろ鐘』『おぢいさんのランプ』『花の木村と盗人たち』『牛をつないだ椿の木』など童話を次々書き上げる。4月、与田準一からも童話集の依頼。学習社に依頼された伝記『都築彌厚伝』執筆のため、8月、長野の温泉に行くが宿をとれず、群馬の万座温泉で過ごし1週間で帰宅。『都築彌厚伝』は頓挫した。10月10日はじめての童話集『おぢいさんのランプ』刊行。南吉は本の印税で高女職員全員に鶏飯をふるまい、職員室にラジオを寄付した。体調が悪化し、12月からは喉が痛み、声も出にくくなる。11月2日、北原白秋が死去。巽と与田から追悼詩集への執筆依頼を受け2篇の詩を書いて送る。それをきっかけに創作を再開、『耳』『小さい太郎の悲しみ』などを書く。1943年、年明けからは女学校を長期欠勤。2月10日安城女学校を退職。

死去

退職後は咽頭結核のためほとんど寝たきりになる。2月12日、巽聖歌に原稿と病状を手紙にして送る。また遺言状も書いている。南吉の病気を知らなかった巽は驚いて岩滑を訪れ、離れで寝ている南吉と対面、原稿の整理をする。3月20日、恩師伊藤仲治の妻が見舞いにきた。南吉はほとんど声が出ない様子で、「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と語った。3月22日午前8時15分、死去。29歳8か月の生涯だった。死因が結核だったこと、関係者が学年末で忙しかったことなどから、葬儀は1か月後の4月18日、離れの家で行われた。法名「釈文成」。半田市柊町の共同墓地、北谷墓地に葬られた。巽聖歌が寄贈した墓石の裏には「法名 釈文成 俗名 正八 昭和十八年三月二十二日歿行年三十一才童話詩小説の作家歿後声明高まる」と彫られている。


作風

地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。
賢治は南吉がまだ学生だった昭和8年に亡くなっているため、両者は会った事はないが、南吉自身は早くから賢治の作品を読み、高く評価していた。賢治没後の昭和9年に開かれた「宮沢賢治友の会」にも出席している(新美南吉記念館ホームページ『南吉Q&A』より) 。
作品の多くは、故郷である半田市岩滑新田(やなべしんでん)を舞台としたものであり、特に少年達が主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」等、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い。(主人公は「久助君」「大作君」など作品によって変わるが、「徳一君」や「兵太郎君」などはほとんどの話に登場して世界観をつなげる役目を果たしている。)
久助君」を主人公にした作品が最も多く、俗に「久助もの」と呼ばれる。

作品

童話集

生前に企画・制作された童話集は次の3作。うち2作は死後の刊行。()内は初出の雑誌名と刊行年。

伝記小説

  • 良寛物語 手毬と鉢の子』 学習社 1941年10月1日
  • 大岡越前守』学習社 1944年6月30日

全集

  • 新美南吉全集』全8巻(牧書店) 1965年
  • 『校定 新美南吉全集』全12巻、別巻2巻(大日本図書) 1980年

















【無量寿寺23】<2017>

八ツ橋杜若園

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正門入口


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参道


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日吉社境内


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ひともとすすき


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本堂


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堂内の金のシャンデリア


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本堂前から




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今年はこの池の杜若が奇麗に咲いていました


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心字池➀


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心字池➁


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心字池③


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心字池④


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中庭の杜若池⑴


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中庭の杜若池⑵


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中庭の杜若池


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中庭の杜若池⑷


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万葉椿





◆杜若

特徴

カキツバタは水辺の修景には欠かせない花で、古くから『万葉集』など歌にも詠まれ親しまれています。名前の由来は「書き付け花」で、衣服を染めるのに利用されたことによります。50ほどの園芸品種があり、ハナショウブのように外花被が3枚の三英花(さんえいか)と外花被が6枚の六英花(ろくえいか)があります。弁幅は比較的狭く、先がとがっていて野性味が感じられ、葉幅は広く葉脈は目立ちません。よく似た花で湿地を好むものにヒオウギアヤメがあり、こちらは花に網目模様が入ります。なお、漢字で「杜若」と書いてカキツバタと呼ばれますが、本来「杜若」はアオノクマタケランを指すものです。「いずれアヤメかカキツバタ」といわれるように、優劣がつけがたく区別しにくいもののたとえとして引用されますが、アヤメは陸生で、一般の草花と同様、水はけのよいところで育ち、一方のカキツバタは水生で、池や沼地など常に水のあるところを好みます。

基本データ

園芸分類 形態 原産地 草丈/樹高 開花期 花色 栽培難易度(1~5) 耐寒性 耐暑性 特性・用途
草花,水生植物
多年草日本、朝鮮半島~東シベリア
50~80cm5月~6月中旬(秋に咲くものもある)
青,紫,白,複色
強い強い(水は必要)
落葉性,耐寒性が強い



























【庄内緑地公園696】

秋桜

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ゲ-トボ-ル場


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コスモス壱


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コスモス弐


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蓮田一


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蓮田二


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蓮田三


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薔薇園Ⅰ


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薔薇園Ⅱ


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薔薇園Ⅲ


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ガマ池


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デイキャンプ場A❶


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ディキャンプ場A❷


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ボ-ト池ボ-ト乗場付近


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ボ-ト池


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デイキャンプ場B❶


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デイキャンプ場B❷


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デイキャンプ場B❸


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デイキャンプ場B❹


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デイキャンプ場B➎


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デイキャンプ場B➏


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デイキャンプ場B❼


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デイキャンプ場B❽


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デイキャンプ場B❾


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デイキャンプ場B❿


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菖蒲池






庄内緑地公園

平成29年4月1日から、バーベキューエリアが予約制になります。

A区画は予約が必要です

A区画は場所の予約(無料)が必要になります。
予約開始日

ご利用日の1ヶ月前の同日10:00から先着順受付
※4月1日分は3月1日から、5月31日分は4月30日から受付します。

予約必要期間

4月~11月の土日祝日
7月16日~8月31日の全日(月曜定休)

B区画は予約不要です

B区画は場所の予約不要のフリースペースです。
炉の予約はできません。当日先着順でご利用ください。

機材のレンタルサービスも行います

バーベキューの機材を有料にてレンタルサービスいたします。
ご利用日の1ヶ月前の同日10:00から先着順にて予約受付します。

予約はこちらから

WEBサイトによる申込みはこちら
http://digiq.jp/shonai (24時間受付)
お電話による申込みはこちら
0570-09-0014 (9:30~17:00)

バーベキュー利用上の注意

バーベキューでの火の使用は、ピクニック広場の他、許可エリア内に限ります。
早朝と夜間は火の使用をしないでください。火の使用時間は9:00~17:00です。
地面への直火は禁止です。地面やテーブルに直接熱が伝わらないように脚付きのコンロを使用してください。
発電機、ガソリン、プロパンガスなどの危険物の持ち込みは禁止です。
炭は安全に消火してください。また、炭や油の残りを水路に流さないでください。
ゴミや炭を捨てる場所はありませんので、必ずお持ち帰りください。
タープの杭打ちやロープ張りなど、施設に傷をつける行為や事故につながる恐れのある行為は禁止です。
無人での場所取り(ロープ掛けやシート張り)や必要以上の場所取りはお控えください。
堤防道路や周辺住宅地への駐車は禁止です。必ず駐車場をご利用ください。また、帰りの車を運転される方の飲酒は厳禁です。
大音量で音楽を流すことや泥酔、ケンカなど他の利用者に迷惑をかける行為は禁止します。


ピクニック広場の予約について
◎A区画は場所の予約(無料)が必要です。
ご利用日の1ヶ月前の同日10:00から先着順受付しています。
予約必要期間は、4月~11月の土日祝日と7月16日~8月31日(月曜定休)です。
上記期間以外は予約不要でご利用いただけます。
◎B区画(炉を含む)は場所予約が不要のフリースペースです。
4月1日から炉の予約はできなくなり、当日先着順のご利用になりました。
◎機材のレンタルサービス(有料)が始まりました。
ご利用日の1ヶ月前の同日10:00から先着順に予約受付しています。
ウェブサイトによる場所と機材の予約はこちら
http://digiq.jp/shonai(24時間受付)
電話による場所と機材の予約はこちら
0570-09-0014(9:30~17:00)
ピクニック広場について
ピクニック広場に炊事場はございません。
機材は設置されておりませんので、脚付きのコンロ等をご持参ください。(有料レンタルサービスあり)
炉をご利用の場合は、42cm×47.8cm以上の金網または鉄板と炭が必要になります。
ご利用後は、火の始末や清掃をして、ゴミは必ずお持ち帰りください。
園内のトイレにトイレットペーパーは設置されていません。
ピクニック広場の利用ルールについて
庄内緑地においてバーベキューを行うにはルールとマナーを守っていただく必要がございます。
楽しくご利用していただくために、下記の注意事項を必ずお守りください。
火の使用はピクニック広場に限定されています。指定区域以外は火気厳禁です。

園内にゴミ箱はございません。ゴミは必ずお持ち帰りください!

火の使用時間は9:00~17:00です。早朝と夜間に火の使用はできません。

直火は禁止です。地面やテーブルに熱が伝わらないよう、脚の長いコンロ等をご使用ください。

タープの杭打ちやロープ張りなど、傷をつける行為や事故につながる恐れのある行為は禁止です。テントを設営する場合は、重りタイプのものをご使用ください。

無人での場所取り(ロープ掛けやシート張り)や必要以上の場所取りはお控えください。

発電機、ガソリン、プロパンガスなどの危険物の持ち込みは禁止です。

堤防道路や周辺住宅地への駐車は厳禁です。必ず駐車場をご利用ください。また、駐車場では白線内以外の場所への駐車は厳禁です。他の車が駐車場から出られなくなります。

大音量で音楽を流すなど、他の利用者に迷惑が掛かる行為は禁止です。また、スポーツや花火などのバーベキュー以外の行為も禁止です。

これらの禁止行為を見つけた場合、ピクニック広場でのご利用を中止していただきます。
(ピクニック広場の利用についてはこちらを参照)


施設案内

庄内緑地グリーンプラザ

開館時間 休館日 入館料
9:00~16:45 (ただし室内広場は9:00~21:00)
毎週月曜日(祝・休日の場合はその直後の平日)
毎月第3水曜日(祝日の場合は第4水曜日)
年末年始(12/29~1/3)
無料(ただし室内広場は有料)

園内マップ

画像をクリックすると拡大したマップをご覧いただけます。

アクセスマップ

庄内緑地グリーンプラザ

〒452-0818  名古屋市西区山田町大字上小田井字敷地3527
TEL:052-503-1010 FAX:052-503-0133

貸ボート(4月1日~11月10日の土・日・祝日営業)、駐車場(有料643台)については、
名古屋市みどりの協会 業務課(TEL 052-731-8922)へお問い合わせください。







【無量寿寺22】<2017>

杜若園

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杜若園一


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杜若園二

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在原業平


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杜若園三


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杜若園四


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杜若園五


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杜若園六


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杜若園七

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杜若園八


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杜若園九


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茶室前通路付近


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杜若園十


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杜若園十一


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杜若園十二





◆杜若

カキツバタは湿地に群生し、5月から6月にかけて紫色の花を付ける。内花被片が細く直立し、外花被片(前面に垂れ下がった花びら)の中央部に白ないし淡黄色の斑紋があることなどを特徴とする。
愛知県県花でもあり、三河国八橋(現在の知立市八橋)が『伊勢物語』で在原業平カキツバタの歌を詠った場所とされることに由来している。在原業平が詠んだ歌は以下の通り。
ら衣
つつなれにし
ましあれば
るばる来ぬる
びをしぞ思ふ
江戸時代の前半にはすでに多くの品種が成立しており、古典園芸植物の一つでもあるが[要出典]、江戸時代後半にはハナショウブが非常に発展して、カキツバタはあまり注目されなかった。現代では再び品種改良が進められている。
漢字表記の一つ「杜若」は、本来はヤブミョウガという別種の漢名(「とじゃく」と読む)であったが、カキツバタと混同されたものである。

Status

準絶滅危惧(NT)環境省レッドリスト
Status jenv NT.png
2007年8月レッドリスト。以前の環境省レッドデータブックでは絶滅危惧II類(VU)



【庄内緑地公園695】

彼岸花

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紅色

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黄色


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白色

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わんさか咲いています

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子供広場壱

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大欅

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子供広場弐


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子供広場参


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じゃぶじゃぶ池(富士山池)


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同上


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同上


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虫取り


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朝顔

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子供広場四


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     メタセコイア


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メタセコイア並木




彼岸花

ヒガンバナ彼岸花学名 : Lycoris radiata[1])は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属多年草である。クロンキスト体系ではユリ科リコリス曼珠沙華マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる。

特徴

全草有毒多年生球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。
道端などに群生し、9月中旬に赤いをつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、の終わりからの初めにかけて、高さ30 - 50cmのもない花茎が地上に突出し、その先端にに包まれた花序が一つだけ付く。苞が破れると5 - 7個前後の花が顔を出す。花は短いがあって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。
開花終了の後、晩秋に長さ30 - 50cmの線形の細い葉をロゼット状に出す。葉は深緑でつやがある。葉は中は姿が見られるが、翌になると枯れてしまい、秋が近づくまで地表には何も生えてこない。
欧米では園芸品種が多く開発されている。園芸品種には赤のほか白、黄色の花弁をもつものがある。

日本での分布

日本には北海道から琉球列島まで見られるが、自生ではなく、ユーラシア大陸東部から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は適切に用いればになり、また水にさらしてアルカロイド毒を除去すれば救荒食にもなる。そのような有用植物としての働きを熟知して運び込まれた可能性もある。
人里に生育し、田畑の周辺や堤防墓地などに見られることが多い。特に田畑の縁に沿って列をなすときには花時に見事な景観をなす。湿った場所を好み、時に水で洗われて球根が露出するのが見られる。なお、山間部森林内でも見られる場合があるが、これはむしろそのような場所がかつては人里であった可能性を示す。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であるとされるが、このことがただちに中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えることはできない。三倍体であるため一般に種子で増えることができないため、持ち込まれた複数のヒガンバナが中国ですでに遺伝的に同一であることは充分にあり得るためである。




メタセコイア学名: Metasequoia glyptostroboides)は、ヒノキ科(またはスギ科メタセコイア針葉樹。11和名アケボノスギ[2](曙杉)、イチイヒノキ。和名のアケボノスギは、英名 dawn redwood(または、学名 Metasequoia)を訳したもの。

形態・生態

樹高は生長すると高さ25-30 m、直径1.5 mになる。
モミネズに似て線のように細長く、長さは-3 cm程度、幅は1-2 mm程度で、羽状に対生に赤茶色に紅葉した後、落葉する。
雌雄同株で、花期は2-3月。雄花総状花序、あるいは円錐花序となって枝から垂れ下がる。
結実は多く、秋からにかけて無数のが地表に落ちる。

分布

メタセコイア化石日本各地の新生代第三紀層に見られ、カナダ北部・シベリアグリーンランドなど北半球北極周辺に広く分布していた。1939年に日本の関西地方第三紀層で、常緑種のセコイアに似た落葉種の植物遺体(化石の1種)が発見された。発見者の三木茂により、セコイアに「のちの、変わった」という意味の接頭語である「メタ」をつけて「メタセコイア」と命名され、1941年学会へ発表された。それまで発見されていたヌマスギやセコイアと異なると考え、メタセコイアを設けた。また、落葉樹であることも推定した。
当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1945年中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサン)」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることも多い。

保全状況評価













【フラリエ24】<2017>

初秋のフラリ

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ハ-モニ-ガ-デン壱


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ハ-モニ-ガ-デン弐


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ハ-モニ-ガ-デン参


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ウォ-タ-ガ-デン壱


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ハ-モニ-ガ-デン四


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エントランスガ-デン壱


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エントランスガ-デン弐





久屋大通庭園フラリ

概要

1998年平成10年)5月、ランを中心とした植物をテーマとしたミニテーマパーク「ランの館」として開園した。建物はラン愛好家の欧州の外交官アジョナ・オーキッドの邸宅という設定で作られており、中庭はスペインのパティオ、アトリウムの屋根はロンドン万国博覧会水晶宮をイメージして造られたが、その後の来場者の低迷から2011年平成23年)10月に名古屋市が行った事業仕分けでは「廃止」の判定が下されたため、2014年平成26年)3月31日をもって閉館され、公園として再整備ののち2014年9月27日から久屋大通庭園フラリエとして新たに開園した。
「人々の憩いの場、交流・にぎわいの場」を基本コンセプトとして5つの屋外庭園のほか屋内庭園も整備され、愛称の『フラリエ』は「ふらり」+「フラワー」+「アトリエ」による造語で公募により選ばれた。

アクセス

公共交通機関

自家用車

フラリエ花の見ごろ情報 

2017/08/18 庭園事務所

サンタンカ(2017.8.18撮影)
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サギソウ(2017.8.11撮影)
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熱帯スイレン(2017.8.9撮影)

 
 

シダレエンジュ・ハーモニーガーデン(2017.8.3撮影)
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園内では100点近くの熱帯スイレンが開花しています。(2017.7.28撮影)

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カンナ‘ベンガルタイガー’ほか・フラリエコート花壇(2017.7.22撮影)
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ダリアほか・フラリエコート花壇(2017.7.17撮影)

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ハイビスカス/フラリエコート(2017.7.17撮影)

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熱帯スイレン/スポット(2017.7.14撮影)
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熱帯スイレン/スポット(2017.7.14撮影)
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ハイビスカス/北ウイング前(2017.7.14撮影)
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アーティチョーク/ハーモニーガーデン(2017.7.6撮影)※見頃は終わりました
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アガパンサス/ウォーターガーデン(2017.7.6撮影)※見頃は終わりました
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熱帯スイレン/池(2017.7.2撮影)
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トンボもアメンボも子どもたちに大人気!都会の小さな自然にも、いきものの生命が育まれます。

 
 

熱帯スイレン/池(2017.7.1撮影)
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熱帯スイレン/リンジーウッズ(2017.7.1撮影)
http://www.flarie.jp/wp/wp-content/uploads/2017/06/dbaa5449283a6fb2c577098f0a7bf259-648x500.jpg
明るい藤紫色の花弁で、先端から中央にかけて濃い青紫がカスリ状に入る熱帯スイレンです。*フラリエで販売もしております。

 
 

大輪のダリア(鉢植え)が咲き始めました。(2017.6.27撮影)
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◆花と実の見ごろ情報 (8月15日現在)*拡大してご覧ください。
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【半田市7】

赤レンガの建物

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耐震補強後壱


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耐震補強後弐


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改修後全体


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モデルではなさそう・・・


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南側から


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西側から


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住吉町踏切

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知多半田駅方面


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住吉町駅


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住吉町駅改札付近


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住吉町駅上りホ-ム






◆赤レンガの建物

歴史

1898年明治31年)、基礎設計をドイツゲルマニア機械製作所、実施設計を妻木頼黄が手がけた丸三麦酒ビール工場であった。第二次世界大戦中の1944年昭和19年)に中島飛行機製作所の衣糧倉庫となり、戦後は1948年(昭和23年)7月に設立された日本食品化工コーンスターチ製造工場の一部(主として製品保管倉庫)として1950年(昭和25年)3月より使用されたが、1994年平成6年)9月に同工場は操業を終え、1996年(平成8年)3月に同社が半田市へ土地と建物(赤レンガ倉庫)を譲渡した[1]
また、現在までの間に東南海地震三河地震半田空襲などに見舞われるも現在までその姿を残しており[3]、半田空襲の際にP-51戦闘機から受けた機銃掃射の傷跡が現在でもその壁面に残っている[4]
2004年(平成16年)7月23日にはハーフティンバー[5]、創建時主棟[6]、貯蔵庫棟[7] の3棟が国の登録有形文化財に、2009年(平成21年)2月23日には経済産業省より近代化産業遺産の認定を受けた[8][9]。なお、2014年平成26年)より改修工事のため公開を行っていなかったが、2015年平成27年7月18日に観光施設としてリニューアルオープンした[10]。オープン後は、指定管理者として株式会社JTBプロモーションが管理運営を行っている[11]

建物は、ハーフティンバー棟、創建時主棟、貯蔵庫棟の3棟で構成されており、改修前の建物内部は年に数回一般公開されていたが、2014年~2015年にかけての耐震補強工事を経て2015年平成27年)7月18日からは常時公開されている(年末年始は除く)[1]

施設

※以下はリニューアルオープンに伴い新設されたものである。
  • 常設展示室
    • 半田赤レンガ建物やカブトビールの歴史を紹介[12]
  • 企画展示室[13]
  • カフェ ブリック・ショップ
    • 知多半島の食材を使ったおつまみや生カブトビールが提供されるほか、名産品の販売も行われている[14]
  • クラブハウス
    • A-Dの4室あり、工房や音楽活動の場として使用される[15]
  • マルシェ広場[15]
  • 芝生広場[15]

交通アクセス


外部リンク









◆住吉町駅

住吉町駅(すみよしちょうえき)は、愛知県半田市宮路町にある名古屋鉄道河和線。駅番号はKC11

歴史

駅構造

8両編成対応の相対式2面2線ホームを有する地上駅。終日有人駅である。駅係員は西改札口にのみ配置されている。 以前は東西に通り抜けができ、東側は名鉄スイミングスクール半田と直接つながっていたが、バリアフリー対応工事後は改札内の上下ホーム間移動しかできなくなった。 かつては列車案内表示自動放送装置はなかったが2008年度末にバリアフリー対応工事後、LED表示の列車案内と自動放送が装備されている。改札内にトイレがあるが、エレベーター・エスカレーターはない。
ホーム 路線 方向 行先 1 2
のりば
河和線下り知多半田河和内海方面
河和線上り太田川名古屋方面

配線図

住吉町駅 構内配線略図

太田川
名古屋方面
住吉町駅 構内配線略図
知多半田
河和方面


利用状況

朝夕は高校生でかなり賑わうが、知多半田駅に近いため、特急は平日朝の下り一本を除いて停車しない。そのため河和線内の全ての特急の停車駅及び特別停車駅の中では唯一上りと土休日は停車しない駅である。

駅周辺

タクシー

隣の駅

名古屋鉄道
河和線
特急(平日の朝の下り一本のみが停車)
阿久比駅 - 住吉町駅 - 知多半田駅
快速急行急行準急
阿久比駅 - 住吉町駅 - 知多半田駅
普通
半田口駅 - 住吉町駅 - 知多半田駅

【東山動植物園839】<2017>

動物園

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きりんデッキ(日曜日のみ開放)


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コアラ壱

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コアラ弐


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つつじヶ丘三叉路


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ム-シュ-チュ-一


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ム-シュ-チュ-三


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ハンカチの木


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落下した苞葉


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御花畑


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地植えのラベンダ-


イメージ 11
UP






◆ラベンダ-

ラベンダー(英:lavender [ˈlævəndər]、仏:lavande)は、シソ科ラヴァンドラ属(ラベンダー属、Lavandula)の半木本性植物の通称である。または、半耐寒性の小低木Lavandula angustifolia (通称:ラベンダー、コモン・ラベンダー、イングリッシュ・ラベンダーなど)を指す。


日本人とラベンダー

宇田川榕庵舎密開宗』、蒸留装置
北海道、中富良野町のラベンダー畑
ラベンダー発祥の地。札幌市南区南沢

ヨーロッパでは伝統的に精油が医療に利用されていたため、西洋医学蘭方)が日本に伝わると、日本の医師や学者は西洋の薬用植物や精油精油の蒸留法、利用法に興味を持ち、情報を集めて医療に利用した。ラベンダーは文政期に、宇田川玄真(榛斎)訳述・宇田川榕庵補校による西洋薬物書『遠西医方名物考』(1822年)及び補遺(1934年頃)に「ラーヘンデル」「ラーヘンデル油」の名で詳しい説明があり、以降江戸後期の翻訳書・蘭学書にもラベンダーや精油についての記述がある。フランス語lavande は、蘭学者の翻訳によりオランダ語lavendel (ラーヘンデル)として紹介された。翻訳作業を通して蘭方薬(西洋薬)に使う生きた植物を輸入しようという機運が高まった。遠藤正治によると、大槻玄沢と宇田川玄真が幕府に申請したオランダからの輸入のリストにはラベンダーも含まれていたという。1819年には花と精油が輸入され、万延元年(1860年)に遣米使節団によってもたらされた植物の種子には、ラベンダーの種子が含まれていた。日本の香り文化を研究する吉武利文は、本草学者山本榕室に送られた種子の記録や、旗本で本草家の馬場資生圃(1785年 - 1868年)のラベンダーの絵などから、幕末期には一部ではあるが、精油が輸入され、栽培も行われていたと考えられる、と述べている。
ラベンダーの本格的な栽培・精油の蒸留は、1937年(昭和12年)に曽田香料株式会社の創業者・曽田政治が、フランスのアントワン・ヴィアル社からラバンデュラ・オフィキナリス(Lavandu la officinalis )の種子を入手したことに始まり、1942年(昭和17年)には日本最初のラベンダー油が採取されたといわれてきた。しかし吉武利文は、株式会社永廣堂の沿革には、1935年に伊豆(富戸)でラベンダー油・ゼラニューム油(ゼラニウム油)の栽培・採油を開始したとあり、それ裏付ける1939年の資料もあるため、北海道より伊豆の方が少し早かった可能性もあると指摘している。戦時体制下であった当時、伊豆では国産香料の生産が目指され、クロモジゼラニウムの蒸留の他に、ラベンダーも試験的に栽培・蒸留が行われていたが、第二次世界大戦が始まると食料増産のためラベンダーの生産はできなくなった。戦後は、伊豆では一部に残るのみとなった。曽田香料は戦中ラベンダーの原種苗を保存し、終戦後は契約による委託栽培を募り、富良野地方などでラベンダーの栽培・蒸留が広く行われた。しかし、1972年(昭和47年)頃から合成香料技術の進歩と輸入自由化の影響を受けて衰退した。
1960年代までは、ヨーロッパを旅する機会のない日本の一般大衆は、ラベンダーをほとんど知らなかった。フランスではラベンダーの香り袋やラベンダー油を用いた製品がよく見られるため、フランスを旅したり滞在したことのある日本人は知る機会があった。日本が経済的に豊かになるにつれ海外旅行をする人が増え、ヨーロッパでラベンダー関連製品の香りを自身で体験し、興味を持つ人が増えた。
1975年に国鉄のカレンダーで北海道富良野のラベンダー畑が紹介され問い合わせが殺到し、観光資源として栽培されるようになった。人気テレビドラマ『北の国から』(1981年 - 1982年)でもラベンダー畑が登場して話題となった。富良野のラベンダー畑は、夏の北海道旅行で立ち寄る場所の一種の「定番」となり、多くの日本人がラベンダーに親しむようになった。
筒井康隆の小説『時をかける少女』(1967年)やその映像化作品であるテレビドラマ『タイム・トラベラー』(1972年)、および原田知世主演・大林宣彦監督の映画『時をかける少女』(1983年)に、物語の鍵としてラベンダーの香りが登場した。それらの作品(特に1983年の映画)に接した人は、その名前と香りの特徴を知った。